草津城 (広島市)

草津城は広島湾西側の草津の地に位置する。草津は古代より海運で名の知れた港で、草津城も港湾の警固や地域防衛のために築かれた城だったのだろう。現状は、周辺は埋め立てられ、城の遺構はJRと宮島線で分断され住宅街に取り残された丘のような状態になっている。本丸跡と思われる削平地には、草津城跡の石碑・案内板が設置されてある。
以下、現地案内板より
草津城址と児玉周防守就方の墓
草津城跡(城山)は山陽本線(1899年)と宮島線電車(1923年)の開通により三分された。戦国時代には西は海老山、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘(広島)、江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。
草津城がいつごろできたかはっきりしないが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城としての形が整ったといわれている。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城をこわしたといわれている。
草津城主であった児玉周防守就方の墓は小泉家の墓所にある。苔むした古い墓(五輪塔)と後世に建てられたと思われる大きい墓が二つあるが、莵山にあった慈光寺の境内にあったものは古い墓ではないかと思われる。
児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また毛利水軍の将であったともいわれている。
就方は、厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。その後織田信長が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺(後の大阪城)にとどけたことで知られている。
就方は天正14年(1586年)74才で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった。
草津まちづくりの会


展望
★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★ (路上駐車)
# 登城2008年1月
所在地 広島市西区田方1
1:己斐新城 2:己斐古城 3:草津城 4:海老山城 5:桜尾城
powered by 地図Z