広島県のお城
2014-12-16T13:48:49+00:00
Serene Bach
はじめに
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid11.html
2008-04-14T05:04:07+09:00
2008-04-13T20:04:07Z
広島県内のお城をノコノコ訪問した時の備忘録です。 広島県には他の都道府県と同じく城跡・砦跡がたくさんあります。普段、ただの山く...
kano
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広島県には他の都道府県と同じく城跡・砦跡がたくさんあります。普段、ただの山くらいにしか思ってなかった所に昔は城があったと考えると、その地域に対する見方も変わってきたりと楽しくなります。しかしながら、広島県だけでも城跡(ただの砦跡・居館跡を含む)は1500件以上確認されてるらしいので気が向いた所だけ訪れてます。広島県の城の特徴としては鎌倉時代に東国より地頭職を得た武士たちが多く移り住み山城を築き発展させた形式が目立ちます。
城巡りは近世城郭である場合は平山城・平城が多く観光気分で楽しいものですが、中世以前の城のほとんどが山城。山の中を延々と歩いてると「何故に私は山の中を這いずりまわらんといけないのか?」とか、本丸跡に到着し写真を写したとき「写真だと・・・ただの山にしか見えん」など否定的な心理状態に陥る事も少なくありません。それでも城跡があると、ついつい行ってみたくなるのが城巡りの不思議な魅力です。
■ エリア別
広島市 - 安芸郡 - 廿日市市 - 大竹市 - 呉市 - 東広島市 - 山県郡 - 安芸高田市
竹原市 - 三原市 - 世羅郡 - 尾道市 - 福山市 - 府中市 - 神石郡 - 三次市 - 庄原市
■ 国史跡
広島城 - 福山城 - 吉田郡山城 - 多治比猿掛城 - 吉川元春館 - 日野山城
- 駿河丸城 - 小倉山城 - 鏡山城 - 三原城 - 新高山城 - 高山城
# 記事は全て2007-2008年のものです。
# 現在214城の記事です。
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広島城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid0.html
2008-01-30T23:52:51+09:00
2008-01-30T14:52:51Z
top>>広島市 原爆により全てを焼失した広島城。現在はコンクリート造りの博物館として使用されているが、戦前は国宝に指定されるなど桃山時代...
kano
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top>>広島市
原爆により全てを焼失した広島城。現在はコンクリート造りの博物館として使用されているが、戦前は国宝に指定されるなど桃山時代を代表する城として勇壮な姿を残していた。毛利輝元が豊臣大阪城と聚楽第を参考に築城し、五層の大天守と三層の東小天守、南小天守を含め櫓数は99にも及び120万石の大大名の居城としてふさわしいものであったらしい。
お城ファンの中にはコンクリート造りの城を笑う人も多いが、大阪城や名古屋城には多くの観光客が訪れる。木造でなくとも構わないから小天守が復興されると昔の面影に近づけるのではと思った。
以下、案内パンフレットより
広島城は、豊臣五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた典型的な平城です。
毛利氏は、南北朝時代から郡山城(安芸高田市吉田町)を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父毛利元就の代になって中国地方の大部分を支配する戦国大名になりました。そのあとを継いだ輝元は、中国地方9ヶ国(現在の広島・島根・山口全県と鳥取・岡山両県の一部)にわたる領地を統治するため、天正17年(1589)、当時五ヶ村と呼ばれていた太田川のデルタに築城を開始し、同19年入城しました。
輝元は慶長5年(1600)の関が原の戦い後、萩(山口県)に移され、清洲(愛知県)から福島正則が安芸・備後両国(現在の広島県域にあたる)の領主として入城しました。しかし、元和5年(1619)正則は洪水で破損した広島城を幕府に無断で修築したという理由から川中島(長野県)に転封されました。かわって和歌山から浅野光晟が安芸一国と備後八郡の領主として入城し、以後、明治維新までのおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を務めました。
明治4年(1871)の廃藩置県以後、城内には徐々に軍の施設が設けられ、明治27,28年(1894,95)の日清戦争の際には大本営が置かれました。そして、昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣は倒壊し、そのほか城内にあった建物もすべて壊滅しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に復元されたもので、内部は武家文化を中心とした歴史史料館になっています。
二の丸表御門
旧大本営跡
天守からの展望
★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★
#登城 2008年1月
所在地 : 広島市中区基町
1:広島城 2:己斐新城 3:己斐古城 4:草津城 5:仁保島城
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仁保島城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid15.html
2008-01-30T22:50:33+09:00
2008-01-30T13:50:33Z
top>>広島市 広島市民から黄金山の名前で親しまれているこの山も昔はお城。桜の名所でもあり花見の季節には多くの人が訪れる。山頂付近まで車...
kano
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top>>広島市
広島市民から黄金山の名前で親しまれているこの山も昔はお城。
桜の名所でもあり花見の季節には多くの人が訪れる。山頂付近まで車で登れて駐車場も完備。トイレや売店・展望台もある。子供の頃、歩いて登った記憶があるが、免許持ちになり車を運転するようになると中々歩いて登ろうとする気になれない。ここからの広島湾の眺めは最高です。
以下、案内板より
城の起源は不明ですが、室町時代の後期にはすでに実在し、府中白井氏の支城であったといわれ、のちに大内氏に属し、さらに毛利氏の支配下におかれています。
この城は広島湾の重要拠点となっていたので、局地的な戦場となり弘治元年(1555年)の厳島合戦の際、陶軍が来攻し、城将香川光景が撃退したなどの話が伝わっています。現在テレビ塔のある山頂付近が城の主要部があった場所です。遺構が消滅しているので、詳しい規模は分かりません。
山頂より広島湾
展望
★★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★
# 登城2007年11月
所在地 : 広島市南区黄金山町
1:広島城 2:己斐新城 3:己斐古城 4:草津城 5:仁保島城
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木の宗山城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid107.html
2008-01-30T21:07:48+09:00
2008-01-30T12:07:48Z
top>>広島市 木の宗山(413m)は登山家に愛されている山らしい。登城の道中、己に対して自問自答してみる。山登りが嫌いなのに山城めぐりが趣味っ...
kano
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top>>広島市
木の宗山(413m)は登山家に愛されている山らしい。登城の道中、己に対して自問自答してみる。山登りが嫌いなのに山城めぐりが趣味って矛盾してないか?と。思わず考えこんでしまう位に山は深かった。所々、雪が残っており四回コケた。幸い命を落とすようなコケ方はしてないがキツい。やっとの思いで本丸部分に到着するも放心状態。視界は良いが冷たい強風にさらされている。気を取り直して遺構を確認し写真におさめ城の全体を思い浮かべてみる。かなり大きな城郭だと感じた。
以下、現地案内板より
木の宗山城は、木の宗山の山頂を中心に東西にのびる尾根の上に築かれていました。城兵がたてこもったり建物を建てたりする平らな地面を「郭」といいますが、城内にはそれが25ヶ所あります。また敵の動きを封じるため、尾根をきった「堀切」と呼ばれる空堀も数ヶ所設けられ、しっかりと守りを固めていたことがわかります。このように山頂や尾根を利用して築かれた城を「山城」といい、戦国時代ころまでに多く見られた城の形です。
なお、この城の城主として戦国武将・吉川興経や奥西仲網の名が古記録にみえますが、詳細については明らかではありません。
広島市
展望
★★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★★★★
# 登城 2008年2月
所在地 広島市東区福田、安佐北区小河原町
1:佐東銀山城 2:八木城 3:恵下山城 4:三入高松城 5:木の宗山城
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己斐新城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid66.html
2008-01-29T23:13:21+09:00
2008-01-29T14:13:21Z
top>>広島市 平原城は広島市西部を見下ろす茶臼山に位置し、己斐東小学校の横から登城できる道がある。ただ近隣に駐車場はなく路上駐車が出来...
kano
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top>>広島市
平原城は広島市西部を見下ろす茶臼山に位置し、己斐東小学校の横から登城できる道がある。ただ近隣に駐車場はなく路上駐車が出来そうな場所もないため単車かバスで訪れたほうがいいかもしれない。本丸周辺は整備もされ視界も良い。また曲輪の加工跡もよく分かる。
この城は己斐氏によって築かれたと伝えられている。安芸守護の武田氏や大内氏に従った後に、大内家で謀反をおこした陶氏の支配となる。毛利氏と陶氏が反目すると毛利元就は佐東銀山城・己斐城(平原城)・草津城・桜尾城など陶氏が津和野攻めに兵力を投入し防御の薄くなった城を次々と攻略。堅城といわれた平原城も毛利氏の手に堕ちた。その後、己斐氏は毛利氏の武将として活躍した。
以下、現地案内板より
己斐城跡 (平原城跡)
所在地 茶臼山(200.2m) 現在通称 小茶臼
西区己斐上四丁目茶臼185
平原城跡は中世の山城跡で、己斐にある四城跡の一つであり、地元では平原城跡、一般には己斐城跡・己斐新城・茶臼山城跡の名で知られている。
構築の歴史は鎌倉時代中期までさかのぼると推定され、厳島合戦(弘治元年・1555)当時まで要衝として争奪の渦中にまきこまれたが、以後は廃城となった。
その間、永世12年(1515)武田元繁に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端であった。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)
の辞世の歌を残し、有田の戦で討死したが、勇猛と義に厚い武将として著名であり、その死が惜しまれた。
その子・己斐豊後守直之は厳島合戦のとき、要害山・宮ノ城にたてこもった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城(鯉城)二の丸御番をつとめた。
城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残している。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまった。
「平原・岩原、この二墟を茶臼山と称す」と芸藩通志に書かれている「岩原城跡」は、旭山奥に今もあり、「ふるじょう」と呼ばれている。当城跡背後の大茶臼は「立石城跡」であり、さらに己斐峠をおいて左方に「柚ノ木城跡」が見られる。
茶臼山は己斐の要の位置を占め、且つ昔は東・南側とも山麓まで海が迫っていた。城跡山頂に立つ時、「平原城は大田川口を扼す海城的性格をもった山城である」という立地条件が、よく理解出来る。
この城跡を身近かな文化財として、大切にしたい。なお、推定であるが、往時の「船溜り」は現在の中一丁目の「仲の御前社」附近にあったであろう。東部の桂原天神は古くから祀られていたが、寛延元年(1748)旭山に遷され、三国屋天神(知新集)、更に後年、己斐天神とも呼ばれ、有名であった。
昭和58年9月吉日 撰文 己斐の歴史研究会
展望
★★★★★
登城口からの疲労度
★★
# 登城2008年1月
1:己斐新城 2:己斐古城 3:草津城 4:海老山城 5:桜尾城
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己斐古城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid67.html
2008-01-29T22:32:21+09:00
2008-01-29T13:32:21Z
top>>広島市 己斐古城は岩原城とも呼ばれている。この城へは城跡の裏側である高須団地1丁目の公園から登城した。公園の一部として整備されて...
kano
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top>>広島市
己斐古城は岩原城とも呼ばれている。この城へは城跡の裏側である高須団地1丁目の公園から登城した。公園の一部として整備されているものの放置状態のようにも見える。城跡の郭跡には展望台も設置されてるのだが、木が生い茂り視界はよろしくない。それでも郭の跡など山城としての形態はよく分かった。
以下、現地案内板より
己斐古城跡 種別:中世山城 住所:西区己斐西町
この山城跡は、自然地形を巧く利用し、地面を平らに加工したり(郭)、深く掘り込んだり(堀切)するなど、防御を固める様々な工夫を施して造られています。このような山城跡は、広島市内から200近く見つかっていますが、大部分は戦国時代(1467~1578)を中心とした時期に造られたものと考えられ、大小の山城がそれぞれの領地を取り囲むように配置されています。
この山城の場合は、大田川河口の西端、眼下に広島湾を出入りする船舶を監視することのできる絶好の位置に造られており、当時は麓まで海岸線がせまっていたものとも考えられますので、船着場を伴った水軍城であったかもしれませんね。城主等の記録は残っていませんが、急斜面に造られた数多くの郭が当時の面影をしのばせてくれます。
展望
★★
登城口からの疲労度
★
# 登城2008年1月
1:己斐新城 2:己斐古城 3:草津城 4:海老山城 5:桜尾城
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草津城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid68.html
2008-01-29T21:09:07+09:00
2008-01-29T12:09:07Z
top>>広島市 草津城は広島湾西側の草津の地に位置する。草津は古代より海運で名の知れた港で、草津城も港湾の警固や地域防衛のために築かれた...
kano
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top>>広島市
草津城は広島湾西側の草津の地に位置する。草津は古代より海運で名の知れた港で、草津城も港湾の警固や地域防衛のために築かれた城だったのだろう。現状は、周辺は埋め立てられ、城の遺構はJRと宮島線で分断され住宅街に取り残された丘のような状態になっている。本丸跡と思われる削平地には、草津城跡の石碑・案内板が設置されてある。
以下、現地案内板より
草津城址と児玉周防守就方の墓
草津城跡(城山)は山陽本線(1899年)と宮島線電車(1923年)の開通により三分された。戦国時代には西は海老山、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘(広島)、江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。
草津城がいつごろできたかはっきりしないが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城としての形が整ったといわれている。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城をこわしたといわれている。
草津城主であった児玉周防守就方の墓は小泉家の墓所にある。苔むした古い墓(五輪塔)と後世に建てられたと思われる大きい墓が二つあるが、莵山にあった慈光寺の境内にあったものは古い墓ではないかと思われる。
児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また毛利水軍の将であったともいわれている。
就方は、厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。その後織田信長が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺(後の大阪城)にとどけたことで知られている。
就方は天正14年(1586年)74才で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった。
草津まちづくりの会
展望
★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★ (路上駐車)
# 登城2008年1月
所在地 広島市西区田方1
1:己斐新城 2:己斐古城 3:草津城 4:海老山城 5:桜尾城
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五日市城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid65.html
2008-01-29T20:02:40+09:00
2008-01-29T11:02:40Z
top>>広島市 五日市城(幸崎城・光明寺城)は甲立荘の出の宍戸氏の城で、宍戸氏は有力な厳島神領衆として知られている。城跡は住宅街の中にあ...
kano
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top>>広島市
五日市城(幸崎城・光明寺城)は甲立荘の出の宍戸氏の城で、宍戸氏は有力な厳島神領衆として知られている。城跡は住宅街の中にあり、また遺構跡に民家が建っているので分かりにくい。
五日市町史によると、徳川期の初め頃まで城の西側を八幡川が流れており二つの小山が並んだ形だったらしいが、片方は掘り崩され宅地化されたらしい。城主は宍戸弥七郎元純との事。毛利軍が陶氏との争いにおいて佐西郡を制圧後は、この城の重要性も失われた。
# 登城2008年1月
所在地 広島市佐伯区五日市4丁目
1:海老山城 2:五日市城 3:桜尾城 4:茶臼山城 5:水晶城
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海老山城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid43.html
2008-01-29T19:52:37+09:00
2008-01-29T10:52:37Z
top>>広島市 海老山城は厳島神主家の神領衆である宍戸備前守の城と伝えらている。地元の人の話によると、この城は五日市城(幸崎城)を本拠と...
kano
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top>>広島市
海老山城は厳島神主家の神領衆である宍戸備前守の城と伝えらている。地元の人の話によると、この城は五日市城(幸崎城)を本拠とする宍戸氏の支城で、昔は海に出た小島の状態だったらしい。現在は公園化されており昔の面影は南端に郭跡やら石積みが残る程度だが、公園化される前は、海老山は三つの小山が盛り上がる地形で大小の郭を確認できたとも。海老山は江戸時代には幕府が管理をする御留山となり、太平洋戦争中は陸軍の高射砲陣地となった。
# 登城2008年1月
所在地 広島市佐伯区海老山町
1:海老山城 2:五日市城 3:桜尾城 4:茶臼山城 5:水晶城
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茶臼山城 (広島市)
http://nadi.aalip.jp/Osiro-hiroshima/log/eid104.html
2008-01-29T18:01:32+09:00
2008-01-29T09:01:32Z
top>>広島市 茶臼山城は山の持ち主である方が管理一般開放されている城跡である。山頂の本丸跡と思われる削平地以外に城跡と思える遺構はない...
kano
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top>>広島市
茶臼山城は山の持ち主である方が管理一般開放されている城跡である。山頂の本丸跡と思われる削平地以外に城跡と思える遺構はないが、山頂まで短歌や俳句などが彫られた石版が陳列されており飽きることはない。
築城時期や城主は不明。この城の登城口には「茶臼山の水」とゆう地下水が汲み上げられており近隣では評判との事。
展望
★★★
登城口から本丸までの疲労度
★
# 登城2008年2月
所在地 広島市佐伯区城山二丁目
1:海老山城 2:五日市城 3:桜尾城 4:茶臼山城 5:水晶城
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