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三原城 (三原市)

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三原城 遠景

 数ある城跡の中でも三原城ほど交通の便の良いところは見当たらない。JR駅が城跡の中にあり駅構内より天守台跡に直接行けるようになっている。小早川隆景により本格的な水軍の城として築城され、櫓の数は32、城門は14と伝えられている。天守閣は存在しなかったが天守台は日本一の大きさとのこと。

 三原城は小早川氏の居城である新高山城の眼前を流れる沼田川の河口に要害として築かれたのが始まりとされる。当初は新高山城の入り口を警護、または中継地としての役目だったと推測出来るが、小早川水軍が毛利水軍の中でも重要な意味を持ち始めると要害から水軍城として整備する必要がでてきたのだろう。織田・本願寺戦において毛利水軍は木津川河口において織田水軍に勝利しているが、毛利輝元は三原城に本営を置いたとされる。その後、織田水軍が大安宅船を導入し毛利水軍を打ち破ると、三原城は防御を固めた水軍城に整えられた。

 毛利家が豊臣政権下になった後、小早川隆景は筑前に移るが隠居し三原で余生を過ごした。隆景没後は毛利氏が管理し、関が原合戦後は福島氏が入り10基の二重櫓が造られ、福島氏のあと浅野氏が入り明治まで浅野氏が城主を務めた。



以下、案内板より



国史跡 小早川氏城跡三原城跡


 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄十年(1567年)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正十年(1582年)前後と、慶長元年(1586年)のころ偉容を整えたといわれる。

 城は、海に向かって舟入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

 小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治二十七年(1894年)六月には、三原駅が開業した。

 今では、市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、舟入跡、舟入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。

三原城 天守台跡

三原城 縄張り図

展望

最寄の駐車場から本丸までの疲労度


# 最終登城2008年2月

所在地 : 三原市城町
1:三原城 2:桜山城 3:城ヶ平山城 4:鶴山城 5:稲村城


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