広島県のお城

槌山城 (東広島市)

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槌山城01
 
 熊野町から西条盆地の吉川に向かう戸坂峠に「念仏の森」なる看板があり、その方向に向かうと槌山城跡入り口に到着する。
 この城は、マツタケの季節に入山お断りと書かれてあったので二度目の訪問である。
登山口から山頂の本丸部分まで約1km。100mおきに残りの距離の案内がおかれてあり下草も刈られ、山主さんが大事に山を管理されているのが伝わってくる。そして槌山城は実際に登ってみると堅固な山城であると体感できる。県内の山城跡を100ヶ所以上まわったが、ここほど登りロープが何ヶ所も設置されてる城は見当たらない。本丸に到着すると整備され木で作られた椅子も置いてあった。視界も良好。郭の規模も大きく見応えのある山城だった。


以下、案内板より


東広島市指定史跡 槌山城跡

 槌山城は、西条盆地の西端、標高490mの急峻な槌山に築かれた中世の山城で、明神山城とも呼ばれていました。城が築かれたのは南北朝時代と言われてますが、明らかではありません。室町・戦国時代、この地域は山口の守護大名大内氏の所領でした。大永3(1523)年出雲尼子氏によって鏡山城が落城し大永5(1525)年以降大内氏の拠点は杣城及び槌山城に移されました。

 天文12(1543)年、大内氏は、守護代として重臣の弘中隆兼を槌山城に派遣します。弘中隆兼は、天文15(1546)年には「西条守護殿」と呼ばれ、天文19(1550)年頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。天文20(1551)年、陶氏の反乱によって大内義隆が滅亡した際、当城は大内義隆派の城番が守っていましたが、陶氏の命を受けた毛利氏らによって攻め落とされています。厳島合戦後は、小早川氏が管理していましたが、「当国守護山」ということで毛利氏に移管されています。

 城跡は、東西400m、南北250mの範囲に広がる大規模なもので、1郭、2郭、3郭、4郭を中心とする郭群にそれぞれ分けられます。1郭を中心とする郭群は本丸に当たると考えられ、3段からなります。3郭を中心とする郭群は登城路が集まる場所に当たり重要な郭群となっています。城内の要所には石垣を築いており、本城跡は、戦国時代中期の代表的な城跡として重要です。


槌山城 登山道

槌山城 本丸跡

槌山城 見取り図

展望
★★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★★★★


# 登城2008年2月

所在地 : 東広島市八本松町吉川
1:鏡山城 2:曽場ヶ城 3:槌山城 4:飯田土居屋敷 5:鬼が丸城


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