広島県のお城

固屋城 (神石高原町)

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固屋城 遠景

 固屋城は役場に近いせいか、きっちり整備されてある山城である。固屋城の出城であった「つつじが丘公園」より登山道が整備され山頂の本丸まで階段が設けられている。山頂の本丸跡には石垣も残り遺構の状態も良い。城域には展望所も設けられハイキングにもお勧め。

以下、現地案内板より その壱


古屋城跡由来

 海抜643mの峻険な雄姿を誇る古屋城跡は中世の典型的な山城の風格を備えている。本丸、二の丸、三の丸に出丸、烽台が削平された頂上に築かれ、本丸から志麻里の庄、小畠、上、光信、光末、常光、亀石を一望に収めることができる。宮谷川の渓流は自然の濠として活かされ北西面は断崖絶壁、東北面は尾根づたいに退くに容易である。東と南面は谷をなし空濠りの役目をなしている。南麓の平地(中学校校庭付近)は下屋敷や兵糧兵馬の集合集積地などに使われたと考えられ現在のつつじが丘公園の台地は最初の古屋城が築かれたのちは出城として使われたものと思える。

 城主馬屋原左衛門太夫光忠は清和天皇(858~875年)の後胤(源氏)八幡太郎義家の弟義綱より17世にあたる。
 もと上総の国(千葉県)馬屋原ノ庄にあったが故あって備後の国に流され同姓の上村有井城主馬屋原氏に預けられ、その庇護のもとに志麻里ノ庄の小畠に固屋をつくり住んだのが始まりといわれる。
 元享3年(1323)後醍醐天皇は鎌倉(北条氏)幕府討伐のため日野俊基を密かに西国に行脚させた頃より豪族は戦乱の兆しを感じ山城の造築にかかった。固屋の光忠の嫡子秀広も正中年間(1324年)有井城主の許を受けて古屋城を築いた。
 元弘元年(1332年)河内ノ国楠正成などに呼応して北条討伐に旗揚げした備後ノ国宮内櫻山慈俊は北条の輩下を討つため嫡子平太郎盛重を総大将として御殿山城主椙原高平等総勢五千騎をもって神石郡第一の豪雄神石郡執行職(志麻里ノ庄地頭職)亀石城主岡田孫八郎員盛を攻め破り、その勢いで古屋城、有井城を攻めた。
 当時古屋城主成宗(秀広の子)は有井城主と共に京都の六波羅に招かれており急を聞いて直ちに帰城したが北条氏にそむいて朝臣櫻山盛重の輩下となり忠勤に励んだといわれる。
 この元弘の乱より170~180年間戦国時代は続き永世6年(1507年)馬屋原但馬守正国が九鬼城を築くまで古屋城は続いたと思われる。

           三和町

現地案内板 その弐


固屋城跡

元弘の乱(1331)から諸国の士の多くは、山城を築いて参戦した。固屋城は、その頃(中世)の山城の典型的なものである。当時馬屋原成宗は馬屋原氏の隆盛発展を図り、固屋城を築造した。その後、天正年間(1582年頃)山城廃止令によって廃城となり山麓に屋敷を構えて移ったと伝えらている。
 

固屋城 本丸周辺

固屋城 見取り図

展望
★★★★
登城口から本丸までの疲労度
★★★★


# 訪問2008年2月

所在地 神石高原町小畠
1:固屋城 2:小畠代官所 3:五殿山城 4:九鬼城 5:大矢城


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