広島県のお城

広島城 (広島市)

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広島城01
 原爆により全てを焼失した広島城。現在はコンクリート造りの博物館として使用されているが、戦前は国宝に指定されるなど桃山時代を代表する城として勇壮な姿を残していた。毛利輝元が豊臣大阪城と聚楽第を参考に築城し、五層の大天守と三層の東小天守、南小天守を含め櫓数は99にも及び120万石の大大名の居城としてふさわしいものであったらしい。
 お城ファンの中にはコンクリート造りの城を笑う人も多いが、大阪城や名古屋城には多くの観光客が訪れる。木造でなくとも構わないから小天守が復興されると昔の面影に近づけるのではと思った。
 


以下、案内パンフレットより


 広島城は、豊臣五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた典型的な平城です。

 毛利氏は、南北朝時代から郡山城(安芸高田市吉田町)を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父毛利元就の代になって中国地方の大部分を支配する戦国大名になりました。そのあとを継いだ輝元は、中国地方9ヶ国(現在の広島・島根・山口全県と鳥取・岡山両県の一部)にわたる領地を統治するため、天正17年(1589)、当時五ヶ村と呼ばれていた太田川のデルタに築城を開始し、同19年入城しました。

 輝元は慶長5年(1600)の関が原の戦い後、萩(山口県)に移され、清洲(愛知県)から福島正則が安芸・備後両国(現在の広島県域にあたる)の領主として入城しました。しかし、元和5年(1619)正則は洪水で破損した広島城を幕府に無断で修築したという理由から川中島(長野県)に転封されました。かわって和歌山から浅野光晟が安芸一国と備後八郡の領主として入城し、以後、明治維新までのおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を務めました。

 明治4年(1871)の廃藩置県以後、城内には徐々に軍の施設が設けられ、明治27,28年(1894,95)の日清戦争の際には大本営が置かれました。そして、昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣は倒壊し、そのほか城内にあった建物もすべて壊滅しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に復元されたもので、内部は武家文化を中心とした歴史史料館になっています。




二の丸表御門


広島城02

旧大本営跡


広島城03

天守からの展望
★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度


#登城 2008年1月

所在地 : 広島市中区基町
1:広島城 2:己斐新城 3:己斐古城 4:草津城 5:仁保島城


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