広島県のお城

大富山城 (庄原市)

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大富山城 遠景

 情緒のある町並みの残る西城の町には久代宮氏の本拠となった大富山城がある。西城の町からもよく見える位置にあるので登山道を探すと西城小学校付近に道を発見。しかし駐車場が見当たらない。地元の人に聞くと山の南側から林道が通っており、かなり上まで登れて駐車できるとの事。早速、大富山の南麓からの道を探しだし大堀切のある場所まで登ることができた。大堀切は林道部にあるため正確な大きさは分からなかったが県内でも有数の堀切と説明版に書かれてある。そこから本丸までは整備のされた登山道がついており簡単にたどり着くことができた。
 大富山城の本丸は広く城全体の城域も広い。なかなか見応えのある城だった。

以下、現地案内板より


庄原市史跡 大富山城跡

 西城市街地の南端にそびえるここ大富山は、久代宮氏(西城宮氏)の本拠として戦国時代屈指の山城である。山容は壷を伏せたようで、頂上に本丸、山腹に三十余段の郭がめぐらされ、西城川を臨む東麓に城主の居館があった。500m北方の萩野台地は馬場として利用、”桜の馬場”と呼ばれ、侍屋敷も置かれていた。その先端明神山は、当時”亀の尾山”と称して”二の丸”が構築され、尼子合戦のおりには守りの拠点となったところである。更に北方、西城盆地の彼方には兜山、蟻腰、その他の支城や塁を配して正面の守りを固めていた。

 本丸南方、搦手は急崖を介して大空掘を開削、さらに尾根づたい約500mのなかには、たくみに数段の郭や空掘が連ねられ、その突端に”物見が丸”が構築されていた。物見が丸は数段の郭や空掘で守られ、南方はるか高、庄原一帯を展望していた。また外周を曲流する西城川と大屋川は、東と北を画す天然の外堀をなし、入江川を内堀として、その城構えはまさに宏壮堅固なものであった。

 大富山城は、室町時代後期天文2年(1553)、宮氏が奴可郡久代村(現庄原市東城町久代)からこの地へ本拠を移すに際し、七代上総守高盛が築城したもので、以後桃山時代天正19年(1591)十一代広尚に至って、出雲の国塩治に領替えになるまで五代約60年間在城、次いで着任した天野新兵衛尉元嘉は慶長5年(1600)、関が原の後まで約9年在城した。天野氏は毛利氏に随従して長州に移り、広島には福島正則が入封。その家老長尾隼人正一勝が東城の地へ赴任するに及んで、大富山城は廃城となった。

 宮氏は築城以来、毛利、尼子両勢力の中に介在しながらもよく勢力をのばし、大いに郷土発展の基を築いて大富文化の花を開かせた。


           庄原市教育委員会


大富山城 本丸跡

大富山城 見取り図


展望
★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★

# 登城2007年12月

所在地 : 庄原市西城町
1:五品嶽城 2:亀山城 3:大富山城


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