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南天山城 (三次市)

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南天山城

 南天山城は吉舎の町を見下ろす南天山に位置する。尾崎山公園の看板を目印にすると分かりやすい。本丸への道は険しくも城域は広く石垣跡や郭跡もはっきり残っており楽しめた。
 和智氏と言えば、戦国時代、毛利隆元が出雲遠征に向かう際に吉舎に立ち寄り、その翌日に急死したことで元就に疑念を抱かれ、六年後に和智誠春は厳島において誅殺されている。備後の国人は尼子方から大内方(毛利方)にうつった者も多く毛利家からは、あまり信用されていなかったのかもしれない。誠春の子元郷は毛利家に忠誠を誓い毛利家武将として活躍した。

以下、現地案内板より


南天山城と和智氏

 南天山城は中世、約200年の間、9代にわたってこの地方を支配した和智氏の本拠で、戦国時代のこの地方を代表する本格的な山城です。
 築城年代は文献がないために明確ではありませんが、初代の和智資実が14世紀中ごろに本拠地を和知(現三次市)から吉舎に移したことから、このころに築城されたものと思われます。以後、和智氏の本拠として戦国時代を迎えました。
 戦国時代、和智氏は大内氏・尼子氏の二大勢力の間にあって、大永年間(1521~1527)には尼子氏に攻められ、8代城主の和智豊郷は尼子方に降っています。9代城主の和智誠春は大内氏を滅亡させた毛利元就の味方として転戦していましたが、永禄12(1569)年、元就によって厳島において誅殺されました。誠春の子の和智元郷は毛利氏に従い、和智氏は吉舎の地を離れています。そのため、この頃に南天山城は廃城となったと思われます。



南天山城について

 標高340mの南天山山頂を本丸とし、南北に延びる尾根にそって郭(削平地)が何段もあります。ここから200m上がった所に大手門(城の入口)がありました。
 城内には井戸跡が4ケ所あります。また、戦国時代特有の竪堀の跡が数ヶ所あります。これは、敵が攻めたときに敵の左右の移動を防ぐためのものです。
 城内からは一部の建物に用いられた軒丸瓦や軒平瓦の破片が見つかっており、それらは吉佐町歴史民族資料館に展示されています。
 南天山城は城域が非常に広く、敵が攻めてきたきたときには城下に住んでいた住民も一緒に立てこもったと考えられます。
 
 南天山城の城下町である吉舎には「古市」「七日市」「四日市」といった古い地名が残っています。また城下を流れる馬洗川は、もともと現在の国道184号線あたりを流れていたのを堀として利用するために流路を変えたという言い伝えもあります。
 なお、南天山と北側の尾崎山を区切る「尾崎山の堀切」は、戦国時代のものではなく、江戸時代後期に清盛公の初代庵主日正上人が里道のため開削したものです。



  平成9(1997)年11月 市史跡に指定       三次市教育委員会


南天山城 本丸跡
南天山城 縄張り図


展望
★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★★★

# 登城2007年12月

所在地 三次市吉舎町


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