広島県のお城

矢野城 (広島市)

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矢野城 遠景

 矢野城(別名 保木城)は広島湾東岸にそびえる絵下山(標高568m)に伸びる尾根上の発喜山(標高465.9m)に位置する。絵下山山頂までは車でスイスイと登れるのに、この城に辿り着くため延々と麓から山道を登った。正直、山登りが苦手な自分にはきつかった。
 城は三入新庄を支配した熊谷蓮覚により南北朝時代の初期に築城されたとて伝えらいる。その後、野間氏が入り周防の大内氏と結び、野間氏は広島湾東部の有力国人となった。毛利氏と陶氏が争いを始めると野間氏は陶氏側についたため、毛利氏に攻撃され落城。野間軍は降伏時に多く殺害された。

以下、現地案内板より


県史跡 矢野城跡 指定昭和12年5月28日

 矢野城は、14世紀の南北朝の動乱の幕開けとともに歴史に登場してきます。それは矢野城合戦と呼ばれ、建武2年(1335)12月、南朝方(宮方)の熊谷蓮覚が北朝方(武家方)の武田氏等の安芸国の有力武士を矢野城に迎え討ち、激しい攻防戦の末敗れたものです。当時の矢野周辺は、宮方ゆかりの荘園が多く、武家勢力が浸透していない宮方の重要な根拠地でした。また、矢野城からは山陽道が眼前に見えるとともに、広島湾への出入を見張ることができる陸海交通の要衝でもあります。

 その後、文安2年(1445)には尾張国野間荘から野間氏が城に入り、弘治元年(1555)に毛利氏に滅ぼされるまでの110年間居城としました。
 現在矢野城跡では、尾根を分断した堀切等で区分された3つの郭群が確認されています。特に中央の郭群の先端には、自然石を利用した門跡とみられる遺構が存在しています。また、矢野城跡の麓には、土居・土居屋敷等、武士の屋敷地であったことを推定させる地名も残っており、矢野城が、この地域の中世武士団の拠点であったことを伝えています。

       平成6年2月28日 広島県教育委員会 広島市教育委員会

矢野城 郭周辺
矢野城 見取り図
展望
★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★★★★ (路上駐車)

# 登城2007年12月

所在地 広島市安芸区矢野
1:矢野城 2:高尾山城 3:天狗城 4:堀城


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