広島県のお城

高杉城 (三次市)

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高杉城 01
 備後国の二宮である知波夜比古神社は、元々神社兼城郭の形態。ドライブ途中に、由緒ありそうな古社があるなとは思っていたが、まさか城跡だとは思わなかった。
 案内板によると、毛利氏の高杉城攻城戦においては江田氏の軍勢約千人が籠もったそうだ。軍記モノはとかく大げさに書かれるのが常ではあるが、現在の境内には千人は狭すぎる。昔はもっと大きかったのかもしれない。また江田氏の支城において千人も動員できたのは凄い。江田氏の本城の旗返山城の守備兵がこの城に立て籠もったのだろうか。この戦いにおいて六百人が討ち死にしたとの事。その後、守備側の落ち武者の一部は鵜飼いとなったと伝えられている。

以下、現地案内板より


県史跡 高杉城跡 

 高杉城跡は標高約170mに位置し、高杉の河岸段丘を利用してつくられた本丸内に神社をもつ特異な形式の平城です。この城は別名を祝要害、杉山城ともいい、中世この地方の国人領主であった江田(広沢)氏と関係の深い知波夜比古神社の祝氏が拠ったところで、江田氏の支城です。

 本城の規模は現在の神社の境内を囲む南北約70m、東西約50mの範囲には土塁があり、その外側には東・西・北の三方にも堀が廻っています。土塁は幅3~4m、高さ1~2mで盛土したものらしく、部分的には石積みも残っています。堀は北西から東南へわずかに傾斜し、排水が考慮されたことがうかがえます。

 本城跡の築城時期や城主については明らかではありませんが、祝氏との関係から観応年間(1350~1352)頃に構築されたものと考えられます。尼子方の本城は天文21年(1552)に毛利氏との戦いにより攻め落とされ、祝甲斐守父子は滅ぼされています。その後、弘治2年(1556)毛利元就、隆元父子によって本殿(市重文)が再建されています。このように本城跡は城郭としての機能は失われても神社はすぐに復元され、元の姿は保存されたことが推察されます。

高杉城 02


 戦国時代の三次盆地は山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏が激しく抗争した地です。その中で、この地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。1553(天文22)年、尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けます。江田氏の支城であった高杉城には城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1000人が籠城していました。この時代には、城はほとんど山頂に築かれていましたが、知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は、神社を中心にこの丘を三重の空掘と土塁で囲み城としたのです。7月23日、この城の東北(塩町)から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかります。軍記の「陰徳記」には、その時の様子を「城兵、矢間を開き散々に射る。寄手(毛利軍)三重の空掘を超え、一度にどっと塀につくところを城兵とも鑓・長刀をもって突き落とし」として激しく抵抗するが、そのうち「粟屋弥七郎唯一少しも引かず、当城一番乗りと名乗り塀際の榎に取り付き、曳やっと声をかけて」攻め、ついに毛利全軍が突入し、逃げる兵士を討ち取ったのです。軍記には討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅の状態でした。城跡の南の山際には、この時討ち死にした城主祝氏を供養した宝篋印塔があります。

# 登城2007年11月

所在地 : 三次市高杉
1:尾関山城 2:比熊山城 3:比叡尾山城 4:高杉城


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