広島県のお城

雲雀城 (尾道市)

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雲雀城 遠景

 雲雀城は役場の近くにあることから簡単に登城口が見つかるだろうと思っていた。しかし、登城口と思われる城の東側の本照寺には車の入れそうな場所はなし。仕方なく役場近くの道の駅に車をとめ、そこから登城口を目指した。天神社下から二の丸と思われる場所にある神社までは道は快適。そこからは少し急な登り道になる。本丸までは下からゆっくり登って30分くらいで到着した。遺構は切岸もしっかりなされており加工の度合いも高い。石垣や堀切なども確認出来た。下草も刈られ地元の方もこまめに手を入れておられるのだろう。なかなか好印象な城跡だった。


以下、現地案内板より


雲雀城址

 御調町域で成立の古い山城は、大塔の撰場城(千羽ヶ城)で、仁野の善福寺の過去帳に、嘉吉2年(1442)に大道庄官藤原時実が築城したとある。ついで嘉吉3年(1443)には、小早川氏の一族の土倉夏平が、交通の要衝で、この地の経済的中心地である市(いち)を眼下にのぞむこの雲雀山に築城している。しかし、この時点での小早川氏の支配はあまり長く続かず、退去したようである。この雲雀城に本格的に入ってきたのは、三吉氏の家臣の池上氏である。三吉氏は、近江国から双三郡八次村(現三次市)に来往した地頭で世羅・御調に勢力を扶植し、有力家臣を各地に配置していった。御調町域関係では市の雲雀(山)城の池上氏、大町の牛皮城の森光(守光)氏、丸門田の丸山城の上里氏がそれである。

 雲雀(山)城は、市の町並みの南西にそびえるこの雲雀山(227m)の山頂を中心に築かれて、御調町域の主要通路を含む地域を見渡すことができる。

 山頂の削平地に、本丸があり、その南に深さ約20m、幅約3mの堀切(空掘)があり、北側に二の丸やその帯曲輪、東に出丸や井戸曲輪があり、土塁の跡や堀切・竪堀などがみられる。城主は平素は山麓の居館にいたが、それは市頭に近いところにあったと推測され、麓の本照寺付近の可能性が大きいと考えられる。当城には明応2年(1493)に三吉氏の家臣池上丹波守が城主として入り、この地を統治した。のちに池上氏は、尼子晴久の勢力下にあった天文13年(1544)、旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や丸山城主、上里氏とともに参加している。


雲雀城 登城口

雲雀城 本丸跡

雲雀城 見取り図

展望
★★★
登城の疲労度
★★★

# 登城2008年4月

所在地 尾道市御調町市
1:勝山城 2:丸山城 3:上田城 4:雲雀城 5:牛の皮城


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