広島県のお城

生城山城 (東広島市)

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生城山城 遠景

 生城山城は光源寺の横から登城した。しばらく歩くと水源地があり、そこから北に向かって登城の案内板が設置されてある。道中から本丸まで下草も刈られ地元の方がこまめに手を入れておられるのだなと感じた。本丸からは志和が360度一望出来て眺望は極めて良好。志芳東天野氏が城を整える以前は古代山城だったとの伝承もあるが、この位置であれば志和を治めるには絶好の場所だと感じた。
 
 志和盆地には伊豆国より来住した天野氏ゆかりの遺構が多く残っている。天野氏には、志芳東、志芳堀、志芳西の三系統があり、その他、志和には石井氏、阿野氏、熊谷氏などの武士団が存在し天野氏は志和盆地の数ある国人の一つに過ぎなかった。それが戦国期になり志芳東、志芳堀の両天野氏は毛利氏と結んだ事により他の勢力を排除し志和盆地の統一を成し遂げた。志芳東天野家は毛利元就の七男元政を養子に迎え毛利一門として大いに活躍した。

以下、案内板より



 生城山城は、鎌倉時代末期に伊豆国天野郷(静岡県)から地頭として志和に来住した天野顕義から九代目の興定のとき、標高485mの生城山山頂に本格的に築いた城であると伝えられています。

 天野氏は、初め山口の大内氏に従っていましたが、興定のとき出雲の尼子氏に属しました。このため大永5(1525)年その当時志和東の米山城に拠っていた興定は大内氏に攻撃されたので、和議を結んで再び大内氏に従いました。

 その後は、生城山城は当初の小規模な城から、戦国期の城にふさわしく山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸、見張りの壇、井戸の壇、お馬が壇、侍屋敷などが整えられました。なお、本丸にある巨石の柱穴は櫓跡で、居館は東麓、現在の光源寺付近にあったと伝えられています。このように、生城山城は、天野元政(毛利元就七男)が慶長6(1601)年に周防国熊毛郡三丘(山口県)に移るまで天野氏の居館でした。

生城山城登城口

生城山城 本丸跡

展望
★★★★★
登城口から本丸までの疲労度
★★★★★


# 最終登城2007年2月

所在地 : 東広島市志和町志和東
1:米山城 2:生城山城 3:財崎城 4:金明山城


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