頭崎城 (東広島市)

県史跡の頭崎城は国史跡である鏡山城や新高山城よりも規模は大きい。平賀氏は、この地域で大きな勢力を持っていたのだろう。標高504m、比高200mの山城なので気合を入れて登ったが、やっぱりきつかった。それでも曲輪周辺は整備されており眺めも良い。曲輪には平賀神社が鎮座していたが、この周辺はお年寄りが多そうだし山道を登ってくる人は少ないと思われる。
この城は安芸国が大内氏と尼子氏の勢力争いの地となった頃、平賀弘保により築かれた。そして弘保は大内方に嫡男の興貞は尼子方に別れ、頭崎城は興貞が拠る城となった。尼子の勢力が弱まると興貞は大内方に復帰し、興貞は隠居し長男である隆宗が家督をついだ。隆宗は大内軍の備後攻略に加わり神辺城を包囲するも陣中にて病死。家督は大内家家臣である隆保が養子として入り平賀家を継いだ。しかし、陶氏により大内家で謀反がおこると毛利家もそれに乗じて平賀家の家督争いに介入。毛利軍は隆保が籠もる頭崎城を攻め自害させた後、隆宗の次男である広相が平賀家当主となった。この事件をきっかけに平賀氏は毛利家武将として活躍するようになる。
以下、案内板より
県史跡 頭崎城跡
頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏の築いた山城です。平賀氏は出羽国平鹿郡から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を拠城としました。その跡、平賀弘保は文亀3年(1503)に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3年(1523)に白山城の北方4kmにある、比高差約200mの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城しました。慶長5年(1600)の関が原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、その城域は東西900m南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。現在も多くの曲輪が残っていて、名前を伝えるものに、本丸に当たる「甲の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。また、付近には「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが残り、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたことがわかります。このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に貴重な遺跡です。
甲の丸付近

案内板の縄張り図

展望
★★★★
最寄の駐車場から本丸までの疲労度
★★★★★ (最寄の駐車場が分からなかった。)
# 登城2007年11月
所在地 : 広島県東広島市高屋町貞重
1:白山城 2:頭崎城 3:御薗宇城
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