広島県のお城

余谷城 (北広島町)

top>>山県郡

余谷城 遠景

 余谷城は城址の立派な案内板が寺原川にかかる橋近くに掲げられている。思わず見入ってしまった。城の案内とは「もっともらしく」と「勇ましく美しく」書くものだなと。文学的センスのない自分には難しい課題である。その立派な案内板を背に滝と城跡を目指した。しかし、1kmくらい進むと道路が倒木でふさがれている。仕方なく車をその場所におき残り1km歩いて滝まで辿り着いた。滝は二つの川から流れ込み立派。思わず時間を忘れる。そして、その滝の場所に「余谷城行」と書かれた標識があるのだが、道が無い。いや、あるのかもしれないが視力1.5の自分でもどれが道なのか分からない。仕方なく山頂目指して直登。山は適度に荒れてるが、それほど登りにくい山ではなかった。それでも比高200m以上あり気合は必要である。ようやく登りつめると削平された郭跡にたどりついた。ここも寺原城と同じく二ヶ所の高地があり、それぞれ削平加工されている。どちらが本丸なのかは分からなかった。


以下、城址入り口付近の橋近くの案内板より



広島県史跡指定 余谷城址 (與谷城)

 後醍醐天皇の延元3年(西暦1336)毛利元就の祖、相模次郎権少輔毛利親衡に、反足利の旗をこの城によって挙げ後村上天皇正平5年(1350)寺原掃部又次郎時規この城に據り吉野朝に赤誠を批瀝した。
 その後幾多の変遷を経て後奈良天皇の天文元年(1532)吉川氏の家臣栗屋彦右衛門元忠第一代城主・第二代城主栗屋右京亮彌六元規・第三代城主栗屋右京太夫蔵允元信移封・慶長5年(1600)とされている。この城の最終はここまでとして余谷城の存続を確認されている。

 繰り返す興亡の歴史を今に伝えるものに踈據と化した城址を探勝するに建武の史跡が草木の陰に埋もれ六百年前、馬を印した往時の登城建築物敷地の削平地・馬屋の段・釣井の段、本丸西丸お部屋の段、矢竹藪土牢・四十七曲・地名には豆腐谷、風呂ん谷、大堀主釜、釜の前等が残っている。

 源頼朝の幕府を創立するや専ら士風の養成に努め笠懸流鏑馬、犬追い場等の武技を修練した事がこの余谷城・寺原城との間にその鎌倉時代に奨揚された武芸の名称をそのまま地名として残しており今尚当時の武芸場たりしたことを物語っている。
 その一例としてこの城坂南麓に笠懸という部落(小字)がある。鎌倉時代の武芸笠懸の遺址である。その地の一隅にやぐらまち(櫓町)という名称の田がある。ここに笠懸に関係する櫓があったと伝えらている。また、笠懸の西南端に広がる赤松林一帯の平地で、いのうはら(犬追原)という地名がある。同時代の犬追原の武芸場たりしことを物語っている。

 この城址に昭和18年3月16日日付をもって広島県史跡名勝天然記念物保存顕彰規により広島県史跡指定地とされている。


■ 名勝 余谷の滝 (十二段滝)

 余谷城大堀西南側の谷あいにあり(この地点より2キロ余)峻険なる山峡見上げる懸崖より飛漠屈曲しつつ更に一段、また一段、十数段に細流する清流。両側の絶壁に和するが如く、春の新緑、秋の紅葉と幽雅な風致は一幅の絵画を見る趣があり人の心を和らげ幽玄の境地に遊ぶ事ができる。

  余谷橋起成同盟会 千代田町観光協会

余谷の滝

余谷城 郭周辺

展望
★★★
登城の疲労度
★★★★★

# 登城 2008年3月

所在地 北広島町寺原
1:日野山城 2:寺原城 3:余谷城 4:今田城 5:猿喰城


powered by 地図Z